辻井喬『伝統の創造力』(岩波新書、2001.)という著作があります。以前、大阪に住んでゐた頃、司馬遼太郎記念館で「友の会」会員向けの講演会の辻井喬≒堤清二さんが講師の回に参加させていただいたことがあります。その際、「予習」として購入したのがこの著作でした。2回の講演が1つのチケットになっていて、もう1回はドナルド・キーンさんでした。贅澤な組み合わせだったと思ひます。辻井喬さんの講演内容は、文藝同人誌『近代説話』について等でした。『伝統の創造力』では司馬遼太郎さんのことをあまり良く書いておられませんが、司馬遼太郎記念館の講演では當然褒めておられ、その差異に奇妙な心持ちだったことを覚えてゐます。
この著作では、同世代の文人・論客・思想家として、司馬遼太郎さんは批判的に取り上げられます。戦後日本人に都合のよい架空の歴史を創作し、それは本人の罪ではないが、ある種の偏った歴史觀をビジネスパーソンの間に流布させてしまった人物として。また、吉本隆明さんは、著者が一目置いており、現代短歌に関してその意見を参照してゐる詩人・思想家としての立ち位置で言及されます。
私は、司馬遼太郎さんと吉本隆明さんの両方に影響を受けました。人間の「典型(タイプ)」について、司馬さんからは地域文化から觀る方法を、吉本さんからは世代文化から觀る方法を、それぞれ学んだのです。しかし、その両者の、世間でよく知られている思想遍歴はかなり対照的で、真逆といってもいいほどです。そのため、その両者はほぼ同い年ですが、直接交わることもなかった様ですし、並べて論じられていることもほとんどありません。司馬遼太郎(以下敬称略)は、自身も兵隊だった者として戦前の日本軍を痛烈に批判し、しかし戦後は昭和天皇の立場を擁護し、バブル景気に浮かれる日本社会とオウム真理教を再び痛烈に批判しました。吉本隆明(以下敬称略)は、戦前は熱烈な皇国青年だったと自己言及しますが、しかし戦後は昭和天皇に終始批判的立場で、バブルの消費社会を肯定しつつサリン事件前までのオウム真理教を高く評価しました。真逆の両者ですが、いくつか一致する点もあります。その一つ目は、「皆が皆同じことを言ひはじめたら、所謂”同調圧力”が強くなりすぎたら、日本の社会は危い」と生涯に渡って言ひ続けたことです。二つ目は、欧米・海外からの流行を安易に「範型(モデル)」として取り入れ良しとする風潮・姿勢を嫌ったこと。三つ目は、「日本」を南洋諸島から東南アジアを経て日本列島へと連なる「島嶼国家」の仲間として捉える視点を、程度の大小はあれ、ある程度取り入れてゐたことです。
この三つ目の共通点には、両者とも、それぞれ別々にですが、<ヤポネシア>を造語した島尾敏雄と接点があったことが関係していると思はれます。私は、ある時そのことを発見し、「あッ!」と思ひました。司馬遼太郎晩年の代表作『この国のかたち』(文春文庫など)では、「”日本”を南洋諸島から東南アジアを経て日本列島へと連なる島嶼國家の仲間として捉へる視点」が少し語られています。吉本隆明晩年の代表作『アフリカ的段階について―史観の拡張』(春秋社)では、より廣い<アフリカ的段階>といふ概念を媒介してですが、やはり「”日本”を南洋諸島から東南アジアを経て日本列島へと連なる島嶼國家の仲間として捉へる視点」が少し語られています。私ははじめ、それぞれが全く別々の方向から、たまたま似た視点に辿り着いたものだと思ってゐました。しかし、その後に島尾敏雄の「ヤポネシア」といふ言葉を知り、まず吉本隆明と島尾敏雄の親交を思ひ出しました。吉本隆明の『追悼私記』(講談社文芸文庫など)には、「島尾敏雄」といふ追悼文が載ってゐます。また、「美空ひばり」といふ別の追悼文にはこんな箇所があります。<「ひばりの佐渡情歌」のなかで、美空ひばりはこのヤポネシア的な歌謡の特徴を、じつに見事に唱ってみせた。彼女がこの歌でノドを細くしながら楽譜の声をひきのばし、メロディを分節化してたくさんの波形をつくり、ある部分はせまるように、ある部分は遠ざかるように言語化して唱うとき、ヤポネシアの歌謡の特徴は最大限に発揮されるようにおもわれ、聴きほれるおもいにさせられた。>と…。司馬遼太郎は、『街道をゆく』をはじめた頃、島尾敏雄と対談しています。この対談は、島尾敏雄側では『ヤポネシア考』(葦書房)という対談集としてまとめられ、司馬遼太郎側では『街道をゆく6 沖縄・先島への道』(朝日文庫など)の一部となってゐます。<那覇で、作家の島尾敏雄氏と落ち合った。(略)氏のいう「琉球弧」とか「ヤポネシア」といった茫漠として世界について、互いのイメージが重なるものなら重ねてみたいという気持が双方にあり、幸い仲介者がいて、那覇で落ち合ったのである。>と…。
1910~1930年生まれ世代の「戦中派」の方々は、「日本とは何か」「日本人とは何か」についてかなり議論を積み重ねられ、それが多くの対談本となって出版されています。自分が影響を受けた方々だけを挙げても、井筒俊彦・伊藤俊太郎・梅棹忠夫・梅原猛・上山春平・江藤淳・遠藤周作・大野晋・岡本太郎・司馬遼太郎・島尾敏雄・白川静・中村元・水木しげる・吉本隆明…などなど。それらの方々のそれぞれの人生をかけた見解は、正反対の意見もあり容易に一つの結論にまとまる様なものではありませんが、議論の蓄積によって形成されたゆるやかな<最低限の合意形成>として、「”日本”を単純に中国・韓国の仲間と考へない方がよい」「無理をして”日本”を欧米の仲間と考へない方がよい」といふ事があると思ひます。(それを敢えて一歩進めると、やはり「”日本”を南洋諸島から東南アジアを経て日本列島へと連なる島嶼國家の仲間として捉へる視点」といふ事につながると思ひます。)
「ヤポネシア論」は、島尾敏雄が本来意図してゐた「ヤポネシア論」は奄美・沖縄など南方諸島の側から、むしろ南方諸島を原型として日本列島全体を捉へ直す試みのことです。しかし、島尾敏雄を知ってから思索を重ねて数年後、私はこの「ヤポネシア論」を極限まで擴大解釈し、世界史のなかに日本史を位置づけるためのキー・ターム、鍵概念としやうとする構想をもつに至りました。ただ、この「擴張ヤポネシア論」は今回の本題ではないので、ひとまず措きます。
なぜ、『伝統の創造力』といふ本のことを述べる中でわざわざ「ヤポネシア」というふ言葉について触れたのか。それは、自分の中で、この『伝統の創造力』を読んでいた頃と、「ヤポネシア」といふ言葉を発見した頃が、ほぼ同時期で重なっており、その両者を咀嚼する過程で二つの問題意識が混ざり合い、「ヤポネシア的視点での捉え直し≒新しい和風づくり」「ヤポネシア≒新しい和風」といふ統一されたイメージが形成されてしまってゐるからです。それは、2007年に司馬遼太郎記念館で辻井喬さんとドナルド・キーンさんの講演を聴き、2008年に吉本隆明 『五十度の講演』を購入して聴いた後、2011年3月の東日本大震災を経て、同年12月に司馬遼太郎記念館で久石譲さんの特別講演を聴くまでの間には固まっていました。
<この国のかたち、私の国のヤポネシア。>
…中篇へ続く…
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